英語だけでコミュニケーションする環境に身を置いて三週間が過ぎた。
誰もが巧みで鮮やかな表現を軽々とこなす中で、僕は、内気な幼児のようなコミュニケーションしか取れずにいる。 会議のたびに、聞き取れなかった、わからなかった表現や単語がブラウザのタブにすし詰めになる。 本当は尋ねたいものの、その尋ねたいことが複雑であるが故に、質問に要求される表現の難易度が上がり、それに物おじして発言の機会を逃すこともしばしば。 言葉一つが制限されるだけで情報伝達の難易度はぐんと上がる。 英語表現力の貧しさの反動か、図作成アプリや例示表現とは今や管鮑之交とも言えるほどに親密になった。
人間が図示や例示といった伝達手段を持っていることに感動を覚え、また、それに甘えてしまう一方で、いやいやお主は英語力の鍛錬のためににこの鬼門をくぐったのだ、真正面にがっぷり向き合わねばならぬ、と力技の自己暗示で自分を鼓舞しつつけている、そして、息も絶え絶え、何とか今日まで生き延びていることに気がつく。
すくなくとも、この三週間で、かっこつけようとする癖を壊せたのは大きな収穫だった。なるだけネイティブに近い発音で表現でなければならない、という暗黙の制約に気がつけたこと、かつそれを緩和することができたのは、周りの同僚の方々が、英語を完全にコミュニケーションの手段として飼い慣らしているさまを目の当たりにしたからに他ならない。
自分の内に潜んでいたネイティブ原理主義を発見できた、たかがそれだけのこと、それによって英語力がこの短期間で上がったかと言われれば全くそんなことはないけれど、このセレンディピティを掴めただけでも及第点としたい。
最近その時々の肯定感や自己愛によって及第点を調節する術を覚えた。かなり生きやすい、便利。二十代半ばの峠をとうに越したくせに今さら何を腑抜けたことをと喝を喰らいそう。しかし事実は事実である。