いわゆるダイバーシティ豊かな環境に自分をおいてから、己は日本人である、ということを実感する機会が増えた。すべてをあけすけにオープンに語る人たちが僕にせまってくるときの距離感にはいまでもたじろいてしまうし、なにかを不快に感じたときはなるだけ被害が広がらないように黙りこくってそそくさとその場を離れてしまう。感情をあらわにして主張することが苦手だ。お国柄とパーソナリティの境界はぼやけていて、あいまいなものだ。むやみにどちらかの枠にあてはめて取りちがえてはいけない。自分が備えている性質すべてを「日本人らしさ」と主張するのは少しドラスティックだと思う。それでも、他の国からやってきた人たちができることが自分にできないとき、パーソナリティ、というふわふわしたあいまいな何かよりも、明確な差異である各々のバックグラウンドに注目してしまう。ある時同僚から、冗談混じりにお前は自閉症か、と言われたことがある。ここ最近自分が明らかにマイノリティな存在であることを強く自覚していたので、もしかしたらそうなのかもしれない、と秋葉原の自閉症専門クリニックを予約しかけた。後日、それを話すと、おい、言葉通りに受けとるのは傾向の一つだぞ、冗談が冗談にならないからやめろ、ただ何かあったらいつでも助けてやるから声をかけてくれ、と謎のフォローを受けた。はちゃめちゃに殴り合って抱き合うのが愛だと信じて疑わない、ファイト・クラブのような彼らのコミュニケーションには、いまだに慣れない。
大学の頃、同じバスケットボールクラブに所属していた友人が、「僕にはロールモデルや尊敬する人がいたことがない」とこぼしていたのを思いだす。対して僕は末っ子のないものねだりが祟ってか、つねに誰かの魅力的な要素を欲しがっていて、そのどれもを我がものにしたい欲求が内側で大暴れしている。対象は二十数年で出会った人のほぼ全て。それは、大半の生徒がすやすや寝ているのもおかまいなく、おもしろおかしくジョークをこぼしながら自分の好きなことを縦横無尽に雄弁に語る高校の倫理の先生だったり、理性偏重でありながらも自他の感情を蔑ろにしない前職のCTOだったり、新卒ではいった会社の泰然自若な上司だったりする。報道系企業に勤めていたころ、お酒の場で、プロフェッショナルは感情を出さずに黙って合理的に物事を遂行するものだ、と報道記者の上司がネギマを指揮棒のようにふりかざしながら弁をぶち上げていたことを思い出す。感情を閉ざしすぎると人によっては拒絶されていると思われてしまう。どうせ死ぬのだから、動的にパブリックとプライベートの適切な境界をひいて、どの人ともなるべくうまくやっていけたらな、と思う。
海外でお仕事できたらいいな、と思っていろいろ調べてはいるものの、なかなかうまくいかない。そればかりを考えているとどうしても心がずんと沈んでしまうので、適度な負荷をかけつつ焦らず進めてみる。スチュアート・ダイベックの短編を近所の図書館で借りることができた。ひまなときにぼちぼち読む。夏の存在感があるうちにもう少し登山もできたら。