十一月の初めにトレイルランの大会に出場することになった。大学生のころ、筑波山のレースと石岡のレースに出たことがあるので、今回が三回目。三十八キロメートルのコース。ほぼフルマラソンと同等の距離、大人の自由研究スパイスカレー作りに長いこと勤しんでいたせいで、お米をたらふく食べて見事に大きく立派に育ってしまった自分を戒めることが今大会出場の動機。僕を誘ってくれたのは高校時代の旧友、百キロレース完走実績もある底なしの体力をもつ彼女は七十キロのコースに出場するとのこと。一番長いコースは百八キロで、朝の三時からレースが開始するらしい。百八キロというと僕の家から筑波山までの距離。それを標高のアップダウンがある中ぶっとおしで走りつづけるのだから、狂気の沙汰である。
なぜか僕のまわりにはそこそこ長距離ランニング好きな人がいて、時折、長いこと走ることについてあれこれお話しすることがある。彼ら彼女らがランニングを継続している理由はそれぞれで、「サラリーマン生活を続けていると自分が成長できているのか不安に思うときがある。ランニングの大会に出場して結果を定期的にログすることで、自分の立ち位置を知ることができて安心する」「体力を搾りきったあとの白州ハイボールがうまい」「かんがえごとをしたいけれど止まってできないたちなのでしかたなく走っている」「健康診断の肝臓の評価がDだった」など。僕がトレランを始めたのは大学生のときで、色々な山をあれこれ堪能してみたい、しかしお金がすっからかんなのでそう頻繁には行けない、体力はあるから走って解決しよう、という短絡的で浅はかで惨めな動機による。アメリカやヨーロッパの方ではそこそこ前から主流なスポーツではあったらしいけれど、日本はいかんせん人口密度が大きくてせまいのでなかなか流行っていなかった、ただ、僕が大学に入ったあたりから、アウトドアアクティビティをテーマにしたアニメだったり、若い層をターゲットにしたちょっとおしゃれなアウトドアブランドが台頭してきたりと、山、へのインターフェースがぽこぽこ増えていってて、そのひとつがトレランで、その波に乗った一人だったんじゃないかと今になって考える。輸入されたナウいカルチャー、というのも国外かぶれの僕の心をわしづかみにして、気づけば慣性のまま、今では低頻度ではあるけれど、それなりにつづけている次第。部活動で体力を枯渇させる、食べて寝て回復させる、のサイクルが心地よかったことが自分の原体験として強く根ざしていて、いまでもそれを求めて、体力を極限まで枯渇させてくれる装置としてのトレイルランを欲してしまうのだと思う。いずれはサブ3.5を走れるクリント・イーストウッドみたいないい感じのおじいちゃんになって、ゴールで僕を待っている大量のゴールデン・レトリバーのパピーに埋もれて圧死したい。
石川県に旅行に行った。現代美術館、泉鏡花の文学館、輪島の朝市、日本で唯一の砂浜の上を自動車で走行できる道路、片山津の海が見えるモダンな温泉、ぶ厚い地魚を提供してくれる地元の回転寿司などなど。三日という限られた時間の中色々回ることができた。金沢の人たちはあまり笑わない。百戦錬磨の退役軍人のような、激しい大雪、寒い季節を幾度も耐え凌いだ凄みがそこはかとなく漂っている。それとは別に、多くのひとが、美しさ、というものに対してとても強い関心を抱いているようにみえた。金沢の駅、庭園、街路を縫って進む水路を覆う柳、公園のベンチ、地銀の支店、駅ビルのトイレでさえもデザインが凝っていた。豊富な金や農水産資源を土台に、フォッサマグナ辺境という地理的特色ゆえに東西の文化が往来し、余剰リソースを伝統芸能や美術といった文化に投下して栄えていった金沢、人間の主要な経済活動がぎゅっと詰まっている魅力的な場所だ。日本海に面している石川県の北端、輪島の方はもうすこしあっけらかんとしていて、開放的で和やかだった。陽気のいい朝市でいかの魚醤を買ったりめだかや椿が彫ってある漆器を買うなどした。千枚田というオーシャン・ビューの水田を上から眺めながら、炊き立ての粒だったおにぎりを頬張るのはなかなか乙でイけている体験だった。自分へのお土産には珠洲焼きの湯呑みを買った。無骨・実用的・素材勝負のものが好きな自分にピンポイントで噛みつくデザイン。空気供給少なめの窯で焼き上げることで、土が含む酸素を奪って還元し、釉薬を使うことなく黒く引き締まった色合いを出すらしい。谷川俊太郎の三十三の質問の中に、「金・銀・アルミニウムの中でどれが一番好きですか?」という質問があった気がする。無論アルミニウム一択である。よくとれて登山ポールやフライパンにも使えて無骨でかっちょいい。もしこの中に鉄がいれば鉄を選びたいけれど。ドイツのTurkというブランドの鉄フライパンをいつか現地で購入できたらいいなと長いこと望んでいる。